仮想通貨は雰囲気でやっている医者の日常

医者の仮想通貨(@BJ_TRON)のアカウントで答えられなかった健康相談の話とか。

生きるということ、死ぬということ

本日はこの質問箱への回答?と言うか
私の考えをだらっと書こうと思う

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質問者の言っている「疾病恐怖症」と言うのは
自分がもしも病気なら(この場合特にがんなら)どうしよう
と言う恐怖症の一種

 

目次

 

生きることと死ぬこと

恐怖の正体

恐怖症は多かれ少なかれ人間は持っている
恐怖という感情は動物の非常に原始的な感情の一つ
恐怖心がないというのは逆に異常だと思う

 

 

 

それこそ恐怖感、危機感がないと
リスクヘッジが出来ないと言う事だから
動物として生き残れる割合が減少してしまうのだ

 

 

 

しかしその恐怖感が過剰なものとなると
質問者のように日常生活に支障を来すため
ちゃんとした精神科への受診が必要となる

 

 

(ちゃんとしたと言うのは恐怖症に対して
 安定剤だけ出す医者はやめなさいと言う意味だ
 安定剤だけでは物事は何も解決しないので
 多少の暴露療法などが必要になる)

 

 

 


また、死に対しての恐怖(タナトフォビア)についての
補足も求められていたため
私の死生観を書く事でどうにかなると思えないが
一応こう言う風に考えているという雑記となる

 

死という現象

 

まず質問者の質問に答えたい
先生は死という現象に対して恐怖はありますか?
が第一の問いだと思うが率直に言えば
直面していないので不明
が現状の意見だと思う

 

 

よく何かしらで他人が死ぬか自分が死ぬかの二択の場合
(例えば遭難したとか、一人を犠牲にしないとダメとか)
私は割とすぐに死ぬ方を選ぶ

 

 

 

別にええかっこしたい訳ではないが
生き残る事の方がそういう設定の場合

どうなるかわからない恐怖を感じるからだ

 

 

 

ここでまた「恐怖」という概念が出てきたが
恐怖という感情はおそらく
よくわからない事象に対して漠然と抱く感情
ではないだろうか

 

 

 

この設定の場合私は「生き残った先がよくわからない」ため
よく分からないより死んだ方が恐怖心が少ない
と判断して死亡ルートを選んでいる可能性が高い

 

 

 

箱に手を入れてコンニャクを触る人の腰が引けるように
未知のものに対しての人間の対応は常に「恐怖」が先行する

 

 

 

 

話を質問者に戻すと質問者は疾病恐怖(がん特化)である
恐らくこの恐怖症が完治するタイミングは
質問者ががんに実際かかった時だと思われる

 

 

 

何故ならがんになった段階でがんは未知のものではなく
現実問題として質問者に突きつけられているためだ
次に起こるとしたら抗がん剤恐怖かもしれないが
これも受ければ消える

 

そしてもう一つの質問補足

死への恐怖が発生する

 

 

死の受容

ここで医者になるために学生が
必須項目で教えられる話を持ち出そう
キュブラー=ロスによる

死の受容」だ

 

 


精神科医であるキュブラー=ロスはがんの告知に対して
人間は下記の五段階の経過を辿ると分析している


1.否認と孤立
2.怒り
3.取り引き
4.抑うつ
5.受容

 

 

1:否認と孤立

がんと告知された患者はまずがんであることを否認する
頭では理解しようとするが感情では受け入れ難い
これは本人以外も起こす反応
「まさか主人が」という反応をする妻も多い


そして何故自分だけががんなのか?と世界から孤立したような
置いていかれているような孤独感に襲われるのが第一段階だ

 

 

2:怒り

そして二番目に「何で私だけが」という怒りが起こる
その怒りの対象が診断した医師
などに向けられたり
家族に向けられたりすることがある

 

 

3:取引

もうタバコは二度と吸いませんから
必ず毎日神様にお祈りしますから
もう嘘が二度とつきませんから

 


などの条件を出し、病気を無かったこととしようとする
もしくは死ぬ時期を遅らせようとする
これはこの瞬間本気で取引をしようとする
この時期に変な宗教の水を買ったりすると治療が遅れる

 

 

4:抑うつ

そして回避できないことを理解し、落ち込む
ここで落ち込まないようにさせることは
次の段階に進む事を阻害するので

決して落ち込む事を止めてはいけない

 

どんなに偉い人の言葉も、励ましもこの時期には意味がない
落ち込み続けた結果、どうするかを決めるのは本人だからだ

 

 

 

5:受容

落ち込んだ果てに答えを本人なりに見出す
それはどんな回答かわからない
その人の人生を賭けた結果だからある意味
ここで導き出された全てが正解と言えると思う

 

 

ここまで来て初めて人は動物の究極に忌み嫌う

という状況を直視することが可能になる

 

 


死という現象への再考

ここで又振り出しに話を戻す
「死」とは何なのか?

 

 

動物は肉体の生理機能が維持出来なくなると死ぬ
それはどう維持出来なくなるかは神のみぞ知るで

 

 

ある人は寿命かもしれない
ある人は病気かもしれない
ある人は事故かもしれない
ある人は殺人かもしれない

 

 

まぁ何にせよ八尾比丘尼の肉でも食わない限りは
動物は死へ向かって毎分毎秒誰しもが平等に
老いて突き進んでいることは明確だろう

 

 

 

そしてタナトフォビア

しかし人魚の肉を食っても
私はタナトフォビアは解決しないと思う

 


今度は恐らく
肉の効果が切れるのはいつなのか
という恐怖が芽生えるのだ

 

 


つまり、恐怖症はその人が
「〜したらどうしよう」
と思考する以上
永遠につきまとう思考の病なのだ

 

 

 

死生観とは

 

さて質問者の文章に戻ろう
職業上、人の死に触れる回数が多い」とある
恐らく医療従事者はその辺の一般の人の何倍もの死を観る

 

 

戦時中や災害時とは違うのは
何もすることなく見守るしかない立場ではないことだ
病院に患者が来た以上どんな医者も看護師も
全力で生命が消えることに争うために出来る限りの事をする

 

 

ここで全員が助かるならそれはそれで良いが
助からない命もある

 

 

研修医時代多くの人が亡くなる度に
私は後悔したり懺悔したり言い訳をした
しかしお見送りの時に一切動じない先生もいた

 

 

 

その先生は私の尊敬している先生の一人で
大学医局の誰よりも論文を読み、書き、査読していた
説明も丁寧だったし、ほとんどの時間を病院で過ごしていた

 

 

そんな彼でも救えないならどうしたら良いんだ?
霊安室から帰りに一回だけ率直に聞いたことがある
先生は患者さんが死んでも堂々としているのは何故なのか」と

 

 

 

先生の回答はこうだった
「自分は誰よりも勉強しているつもりだ
 それでも亡くなってしまう患者さんには
 誰よりも後悔がないように全力でやれる事をした
 医療は奇跡を起こすもんじゃない

 

 

 

医者になりたての私は脳のどこかで
医療は奇跡を起こさせてくれるんじゃないか
とてつもなく甘い事を考えていた

 

 


医療は人を癒すのではない

 

医者になったら先生と呼ばれる
どんなに若くても免許を取れば先生だ
どこかで人間の勘違いが始まる

 

 

もしかして僕は特別な存在なのかも…?

 

 

しかし患者さんの死と直面し
自分には何の奇跡も起こせないことを知る
生命は前述したように時の流れとして一斉平等
死に向かってひた走っているのだ

 

 

患者さんに告知をして患者さんに泣かれ
少し抗がん剤が効いたと嬉しそうに報告した次の月に
抗がん剤の中止を伝える

 

 

この過程は非常に何とも言えない気持ちになる

 

家族さんに廊下で掴みかかられたこともある

 

何でもう抗がん剤行ってくれないんですか
見捨てるんですか
隣の患者さんは主人と同じ時期に
入院して来てまだ薬行ってるのに!

 

 

見捨てたりしたことはない
死ねば良いなんて思ったこともない
でも効果も無く、副作用の方が強くなった時
人間にはもう抗う術が尽きてしまうことがあるんだ

 

 


ここで私はいつも思い出す言葉がある

 

医療は人を癒すのでは無い
 ただ寄り添うことしか出来ない

 

 

結局先生先生と呼ばれたところで
患者さんが癒えるのを横で補助することしか出来ない
それが私がなった「医者」という仕事だったわけだ

 

 

 

私の死に対してのイメージ

 

私の家系はがんが多い
家族もほとんどがんで死んでいるか闘病している
多分私もいつかがんになるだろう

 

 

その時私はキュブラー=ロスの死の受容を1からやるだろう
しかしステップの進み方は早いと思う
取引したところでがんは治らない
怒ったところで生きている以上死ぬのは明確だからだ

 

 

 

救急の日記でも書いたが人は本当にいつ死ぬかわからない

www.drbj.club


出来ることとしたら毎日いつも大切に生きることだけだ
とても難しいし出来ない日の方が多いけれど

 

 

 

最初に戻ろう
恐怖とは未知のことに感じる人の本能
だから死に対しての恐怖心が無い人間はいない
(程度があると思うが)

 

 

 

どんだけ金を持っていても
どんだけ貧しくても
どんだけ美しくても
どんなに醜くても

 

 

 

死ぬものは死ぬ
死なないものは存在しない

 

 

 

結局死を恐怖する暇があるなら
その恐怖を超えていかに
今生きているかということに目を向けるべきだと思う

 

 

死と同じ位、私は生きているということは未知だと思う

 

 

何で呼吸して、何で飯を食って、何で悩むんだ?
めちゃくちゃ
そして生きることを考えていた方が
多分今をもう少しよくするヒントは出てくると思う

 

 


残された医者と家族

長くなったから最後に思い出を一つ書いて終わろう
結構長く診ていた患者さんが亡くなった
亡くなる直前まで意識があったから
私はその患者さんと会話することが出来た

 

 

 

先生研修医だったのにもうお医者さんだね
先生と長いようで短い付き合いだった
でも先生が最後に取ってくれた点滴がね
本当に持ってくれて痛い処置あれから受けなくて済んだよ

 

 

 

 

最後にありがとうと言われた
家族さんもありがとうと言って彼を連れて帰った

 

 

痛く無く最後を見送れたならそれはそれで
私は何かの役に立てたのかもしれない

 

 

 

でもありがとうと言われる価値が
私にあったかはいまだにわからない

 

 

 

 

数ヶ月後家族さんから荷物が届いた
手紙と本だった
生前の話葬儀の話や色々と
料理の本を送ったから食べて元気に生きてください
という内容だった

 

 

作って食べて私は生きて仕事をする
これからも倒れるまで

 

 

 

だから死ぬことを考えて恐怖する暇が無いのかもしれない
人間は死に向かって走りつつ、
道中食べて笑って怒って寝て人を思いやって思いやられて行くんだろう

 

 

 

この日記にはオチは特に無い
ただいろんな話をまとまらないなりに書いたから
あなたなりの受容出来る落とし所のヒントになれば何よりだと思う

 

 

このブログは質問者と、追記を求めてくれたMakiさん(@maki_coin )に捧げます